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伊根の見どころ

丹後大仏

たんごだいぶつ
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 明治34(1901)年、筒川村の農家など村民が出資し組合を設立、筒川製糸工場が建設されました。事業は順調に発展し、組合員の作る繭は全て買い入れるなどで農家の経済は著しく向上しました。

 しかし、明治42(1909)年6月14日、春繭の乾燥中に出火、工場が全焼してしまいます。組合員は田畑山林を抵当に借金し工場を再建、製糸業を継続しました。緊縮財政を余儀なくされ、役員・従業員も給料が減らされるなか、「借金返済の暁には、皆で東京見物に行こう」と約束し、役員・従業員は一丸となって励みました。第一次世界大戦による大戦景気も手伝って、大正6(1917)年、ついに再建の借金を完済することができたのです。

 

 そして、大正8(1919)年1月14日から10日間の日程で、従業員など116人の一行は東京見物に出発。神戸で造船所を見学、伊勢神宮を経て東京では泉岳寺、明治神宮、宮城(皇居)などへ行き、さらに芝居を鑑賞、横浜では生糸倉庫を見学しました。しかし、この時期は折り悪く、国内でスペイン風邪の第一波が猛威を振るっていたのです。道中、行く先々で「悪いときに来たね。感染するから早く帰ったほうがいい」と言われたといいます。

 帰路に体調の悪くなった者が続出し、宮津で泊まった旅館で1人亡くなり、他に旅館から動けなくなった12人も家族が迎えに行きますが、帰った後も次々と亡くなり、関係者を含め42人が亡くなってしまいました。

 凄惨な結果に、工場長の品川萬右衛門は、単なる慰霊碑だけではなく、末永く慰霊されるよう仏像を祀ることを発案し、京都の仏師に仏像製作を依頼、同年4月7日、青銅製の大仏が日出港に到着、修羅に乗った大仏を村中こぞって現在地まで運び、翌4月8日、橋北地域の仏教各宗派僧侶出席のもと開眼入魂式が行われました。また、大仏のほか青銅製の灯篭一対(高さ3m)、大火鉢(直径90cm)、台付狛犬一対(高さ1.2m)も配置されました。

 大正9(1920)年、第一次世界大戦の終結による戦後恐慌が起こり、生糸の相場も半値以下に暴落、経営が悪化し、筒川製糸工場は綾部製糸(株)(のちの新綾部製糸)に買収されました。大正10(1921)年4月に工場は一時閉鎖されますが、大正11(1922)年4月から綾部製糸分工場として再開します。そして、大正12(1923)年2月7日、「丹後繭糸蚕種生産販売組合」が解散、さらに、昭和11(1936)年6月、合理化のため筒川分工場が閉鎖され、筒川製糸工場としての35年間の歴史に幕を下しました。

 その後、大仏にも受難が訪れます。昭和18(1943)年、戦局の悪化により物資不足が顕著になり、金属類の供出令が出され、大仏の供出を促されました。灯篭、大火鉢、狛犬を供出し、大仏の供出はしないよう願い出て、一旦は許されるのですが、翌昭和19(1944)年、強制譲渡令が出され、拒むことができず大仏も供出しなければならなくなりました。村民は、大仏応召の際、せめて出征する兵士のように、と赤たすきを掛けました。首や胴体がばらばらにされ、荷車へ積まれた大仏に清酒を注ぎ別れを惜しんだといいます。急速に荒廃していく慰霊地に嘆く村民有志が、同年、地元に「大仏奉賛会」が結成、大仏再建を村民に呼びかけました。4月には石仏建造を仏師に依頼、碇峠の石切り場で建造が進められました。しかし、12月に軍から「戦時下に石仏建造の如き仕事は中止すべし」と命令を受け、あわや中止か、という事態に陥りますが、「彫刻が7割方進んでおり、竣工期限も間近」として許され、建造が進められたのです。

 昭和20(1945)年、現在の石仏が完成し、再び村民こぞって現在地に運び、同年4月8日、橋北の仏教各宗派僧侶出席のもと開眼入魂式が行われました。

名称丹後大仏
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